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盛岡地方裁判所 昭和37年(ワ)177号 判決

原告 岡部岩雄

被告 国

訴訟代理人 光広竜夫 外四名

主文

別紙日録(一)記載の地域のうち別紙目録(三)及び(四)記載の地域について本件訴を却下する。

別紙目録(一)記載の地域のうち別紙目録(三)及び(四)記載の地域を除くその余の地域について原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一申立

原告は、「別紙目録(一)記載の地域は原告の所有であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告は主文同旨の判決を求めた。

第二請求の原因

一、別紙目録(一)記載の地域(以下、本件係争地という)は、別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の四筆の山林からなつており〈省略〉

右四筆の山林は、元訴外大久保鶴松の所有であつたところ、明治三八年一一月一日、同人の子大久保千代松がこれを相続し、その後、訴外盛岡不動産株式会社を経て訴外村上三郎がこれを買い受け(登記簿上は、昭和一〇年一月一八日付売買が登記原因となつているが、実際はそれ以前に売買がなされている)、原告は、昭和九年一一月八日、右村上三郎から右四筆の山林を買い受けて(登記簿上は、便宜昭和一二年八月二五日に一旦訴外平野嘉兵衛名義に所有権移転登記をし、同二三年二月一八日に原告名義に所有権移転登記をした)、本件係争地の所有権を取得した。

二、仮に、被告主張のように、本件係争池内に被告所有の土地(以下、国有林という)および訴外浅利由城所有の土地が存在するとしても、原告は時効によつてその所有権を取得した。すなわち、右売買契約後の昭和一〇年六月四日から同年六月二四日まで、売主側柿木富太郎、買主側武井忠一をそれぞれ代理人として双方立会のもとに本件係争地の実地踏査をなし、その際、境界線(本係争地とその隣接地の境界)に原告の所有を示す〈オ〉印の標識杭を打ち込み、同月二四日その引渡を受けたが、原告は、その後引続き管理人をおいて本件係争地内山林の火災等災害防止、保安並びに養木等の施策手入れをなし、右引渡の日から二〇年以上本件係争地を占有してきた。ところで、前記四筆の山林には、明治四二年四月三〇日、当時の所有者訴外大久保千代松が同人の酒造税一七〇〇円を担保するため大蔵省に対して抵当権を設定し、右抵当権が数次更新されており、大正一四年一二月三〇日には、右訴外人の株式会社盛岡銀行に対する債権限度額二万五〇〇〇円の抵当権が設定され、右設定の際には右当事者双方が現地を踏査確認して原告の主張に沿う実測図面が作成されている。しかして、原告は、前記四筆の山林買受けの際、その地域が本件係争地に当たることを信じて疑わなかつたのであるが、後日の紛議を慮り、念のため昭和一三年一〇月五日本件係争地の隣接国有林所管庁雫石営林署に対し「山林境界立会及び確認願」を提出した。しかるところ、同営林署は、これに対して二〇年間以上も何等回答せず、昭和三六年九月八日に至つて、突如、同営林署長佐藤彦治名義の同日付文書をもつて本件係争地内には国有林が存在すること、原告は国有林を侵害する者であり、原告が右域地内に施した標識等を撤去することを要求する旨原告に通告し、さらに同年一〇月九日付「境界権側作業について」と題する書面を原告に送付して、勝手に、その国有林と主張する地域内に侵入し、右作業を開始するに至つた。以上要するに、原告は本件係争地の引渡を受けて占有を開始した当時、本件係争地内に国有林および訴外浅利由蔵所有の土地が存したことを知らなかつたことにつき過失はなく、かつ、平隠公然に所有の意思をもつて占有を継続してきたものというべきである。しかして、本件係争地の引渡を受けた昭和一〇年六月二四日から起算して、民法第一六二条二項による一〇年の時効期間は同二〇年六月二三日に満了し、仮に、右過失が存したとしても、同条一項による二〇年の時効期間は、同三〇年六月二三日に満了したから、原告は本件係争地の所有権を時効により取得したものである。

三、しかるに、被告は本件係争地の帰属を争うのでその確認を求める。

第三答弁

一、本案前の抗弁

被告は、後記のように、別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林が原告の所有に属することを争わず、右四筆の山林は別紙目録(三)記載の地域に該当するものであり、右地域が原告の所有に属することを被告において争わないから、本訴請求中右地域の確認を求める部分については確認の利益がない。また、別紙目録(四)記載の地域は、訴外浅利由蔵所有の別紙目録記載の(5) の山林であり、本訴請求中右地域の確認を求める部分は、被告たるべきものを誤つており、当事者適格を欠く不適法な訴である。したがつて、本件訴は右限度において却下されるべきである。

二、請求の原因に対する認否

一の事実のうち本件係争地内に別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林が含まれていること、右四筆の山林が元訴外大久保鶴松の所有であつたところその子大久保千代松がこれを相続し現在は原告の所有であること、登記上の記載が原告主張のとおりであることは認める。その余の事実は争う。

二の事実のうち、右四筆の山林について大蔵省に対して原告主張の抵当権が設定されたこと、登記簿上株式会社盛岡銀行に対し原告主張の根抵当権が設定されていること、雫石営林署長が、原告に対し昭和三六年九月八日付警告文、同年一〇月九日付「境界検測作業について」と題する書面を各発したことは認める。訴外大久保千代松が株式会社盛岡銀行に対し、右根抵当権設定の際、当事者双方が現地を踏査確認して実測図面を作成したとの事実は不知。その余の事実は争う。

三、本案に関する主張

1(一)  本件係争地はその大半が国有林であり、原告所有の別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林は右国有林内に存在する猫の額ほどの小地域にすぎない。すなわち、右(1) ないし(4) の山林の範囲は別紙目録(三)のとおりであつて、本件係争地内の民有地は右四筆の山林のほか訴外浅利由蔵所有の別紙目録(二)記載の(5) の山林(その範囲は別紙目録(四)記載のとおり)が存在するにすぎず、その余は岩手郡雫石町大字西根字南葛根田一番南葛根田国有林、同郡同町大字長山字北葛根田一番北葛根田国有林の各一部に該当する。

(二)  右(1) ないし(5) の民有山林の位置、範囲は、明治四〇年八月、本件係争地付近一帯に亘つて当時の青森大林区署(現青森営林局)境界査定官吏大平乕之助によつて実施された旧国有林野法(明治三二年法律第八五号)に基づく国有林の境界査定によつて適法に確定されたものである。

ところで、いわゆる境界査定処分の効力について、大審院大正六年一〇月一二日判決(民録二三輯一三九五頁)は、宮林境界の査定は、官有林地と隣接地との境界を調査するにとどまらず、その調査により両地の境界を確定し、官の所有に属する土地の区域を決定すをことを目的とする純然たる行政処分であることを判示している。また、東京高裁昭和三四年四月一四日判決(訟務月報五巻五号六七二頁)は、境界査定処分が適法になされていれば、国有林と民有林との境界は右査定線のとおり確定する旨判示し、仙台地裁古川支部昭和三六年四月二四日判決(訟務月報七巻五号一〇三八頁)は、大林区署長のなす境界査定処分は官民有地の境界を確定するのみでなく、その境界によつて区分される官有地の区域を決定することを目的とする行政処分であつて、それが確定した場合は、本来民有地たるべくして官有地に編入された区域についても民有地の所有権は消滅するものと判示し、熊本地裁昭和四〇年九月二八日判決(訟務月報一一巻一一号、五一頁、判例時報四三一号一四頁)は境界査定処分が確定すれば、査定の効力として右査定線を越えてその所有を争うことができなくなる旨判示している。さらに、最高裁判所昭和三八年六月二一日判決(訟務月報九巻九号二五頁)は境界査定処分に対する前記大審院判決を踏襲している。すなわち、境界査定処分か、適法な訴願の申立なく確定した以上、これに重大かつ明白なかしがあつて無効と判断されない限り本来民有地たるべくして官有地に編入された区域についても民有地の所有権は消滅し、右査定線を越えてその所有を争うことができないことはすでに確立された判例というべきである。

したがつて、原告の本訴請求も結局のところ本件査定線を越えてその所有権を主張することになるのであるから、右査定処分が無効と判断されない限り査定処分の効力によつて遮断されるべき運命のものである。

(三)  右(1) ないし(5) の山林が民有地として本件係争地域に孕在するに至つたゆえんは以下に述べるとおりである。すなわち、右民有地の所有権の変遷をたどると、本件係争地一帯はもと藩有林であり、藩籍奉還により宮林に編入されたものであるところ、明治六年一二月二七日付大政官達第四二六号「家禄奉還ノ者ヘ宮林蕪地払下規則」に基づき右山林のうち(1) 、(2) 傷の山林は家禄奉還士族田鎖政貴が、同(3) 、(4) 、(5) の山林は家禄奉還士族大矢勝成がその申請により明治九年一二月七日授産用地として政府から払下をうけたものである。当時、官地の払下については政府の取締が厳しく、予め払下官林を存置官林(一等官林)と区別して三等官林に編入のうえ内務省の払下認下のあることを絶対的要件とし、還禄人への地所立木払下面積も、前記太政官達第四条により一人当たり原則として五町歩以内に制限されていたが、岩手県においては、同条但書により内務省へ伺済のうえ一〇町歩まで右制限が緩和され、田鎖政貴、大矢勝成もその枠内で払下げられた。すなわち、右両名の岩手県に対する払下申請に対し、県において調査の結果、申請箇所に支障があるとして場所を替えたうえ、右大矢勝成については明治九年一一月一五日、右田鎖政貴については同年同月二〇日、それぞれ内務卿の認可があり、(1) の山林については払下反別一町二畝二五歩(実測面積三町八畝二〇歩)、以下(2) の山林については八反七畝二五歩(同二町六反三畝一五歩)、(3) の山林については一町二反七畝歩(同三町八反一畝七歩)、(4) の山林については一町四反七畝一五歩(同四町四反二畝一五歩)、(5) の川林について一町反四畝(同四町三反二畝)として払下地を実測のうえ払下げられたのである。明治一〇年には、いわゆる地租改正処分の一環として本件係争地一帯に対する山林原野官民有区分調査が行なわれ、官民相互の所有地の範囲囲が確認され、民有地の地籍が定められた。右官私区分において民有地と認められた土地は、右払下にかかる土地に限られたのはいうまでもなく、それ以外の土地はすべて官地とされたのである。ところで山林原野野帳および登記簿謄本による右各山林の面積が、前記払下時の実測画積と差異があるが、これは前者が一間を六尺として計算し、後者が一間を六尺五寸として計算しているがためであり、実地における右各山林の範囲、面積は、官民有区分によるも全く移動がなかつた。官民有区分調査についで、明治二〇年ごろ地押調査が行われたが、右各山林については、地租改正当時から地籍、面積がそのまま襲用された。そして、明治四〇年八月に前記境界査定処分がなされ、その位置、範囲が確定されたのである。したがつて、本件係争地全部が原告の所有に属するとの原告の主張の理由のないことは明らかである。

(四)  ところで、地租政正処分の結果、各地割の境界が確定した。それによると、本件係争地に関係する地割のうち第三六地割と第三五地割の境界は金堀沢であり、第五五地割と第五四地割の境界は明通沢である。したがつて、原告がその所有を主張する範囲は、西根村第三六地割全部と、その東方に隣接する第三五地割の三分の二以上とさらに長山村第五五地割の約三分の二が含まれることになり、原告の主張によればその総面積は実測約四〇〇町歩であるという。しかるに、原告所有の山林は第三六地割と第五五地割内の山林だけであるから原告の主張の理由のないことは明らかであり、また、面積については、公簿面積と実地の面積に差異があるのが通常ではあるけれども、それもせいぜい一〇倍程度であるから、実測面積が公簿面積の約二六九倍になる本件の場合は常識外の倍率である。ちなみに、被告の主張する原告所有の地域(別紙目録(三)記載)の面積を、雫石事業区基本図(乙第四六号証の一ないし六)に基づいて算定すると公簿面積に概ね合致することが認められる。

2  原告は、本件係争地の時効取得を主張する、しかし、北葛根田国有林、南葛根田国有林については、明治四〇年八月境界査定官吏大平乕之助により国有林野法に基く境界査定を実施し同国有林と同国有林内に孕在する民有地即ち四筆の土地との境界が適法に確定されたことは、前記のとおりであり、右境界が確定された後、被告において本件係争地を含めて北葛根田南葛根田国有林を経営管理してきたが、その状況は次のとおりである。

(一) 明治三五年四月農商務省訓令第六号「国有林施業案編成規程」に基づいて各事業区ごとに「森林を法正なる状態に導き、その利用を永遠に保続する目的をもつて」(同規程第二条)施業案を編成することが定められ、右規程に基づいて青森大林区署においては明治四二年盛岡小林区署管内西山事業区(現在の雫石営林署、北上川上流経営計画区雫石事業区)について施業案を編成したが、この実行期間は明治四二年乃至大正三年の五か年で、西山事業区には本件係争地たる北葛根田、南葛根田国有林(編成当時の国有林名は荒沢山、高倉山、南葛根田、北韓根由、東葛根田、網張)一五九林班乃至一七二林班が含まれていた。(林班は森林の位置を明らかにし、各種森林施業計画および実行ならびに記帳整理等の便に共にするために適当な範囲を構成する必要から、さらに事業区を区分したもので永久的性質を有する土地区画の単位である。したがつて、現在は至るも林班番号は変らないのであるが、本事業区については大正二年第一次施業案編成のとき、西山、御所事業区が合併になり明治四二年編成時の林班番号が現在の林班番号に変更された。)その後、大正三年八月二二日農商務省訓令第九号「国有林施業案規程」、昭和二三年四月六日農林省訓令第一〇六号「国有林野経営規程」、昭和三三年二月五日農林省訓令第二号「国有林野経営規程」と関係規程の変遷はあつたが、これらにもとづいて西山事業区(現雫石事業区)の各国有林について、施業案の実行期間到達前あるいは実行の途上において実地調査をなし森林経営の基本業務である施業案が編成され、これに基づいて各種の国有林野事業が実行されてきたのである。

(二) すなわち、明治四二年~大正三年、大正四年~同一三年、大正八年~同一三年、同一四年~昭和六年、昭和七年~同一六年、昭和一七年~同二一年、昭和二二年~同二八年、昭和二九年~同三二年、昭和三三年~同三五年、昭和三六年~同四〇年、昭和四一年~同四五年を各実行期間として区切り、それぞれの当該年度分の施業案(現経営計画)を編成し、作成されたそれぞれの図簿に基づいて各種の国有林野事業を実行しているが、今日まで同人からも異議を受けることなく、国において本件係争他を含む国有林野の管理経営を行つてきたものである。これらの施業案の編成に当たり作成される図簿類は総て実地に現状調査をすることによつて初めて森林の現況を知り、将来に対する森林経営計画の基礎資料がえられるものであるところから、本件係争地を合む西山事業区(現雫石事業区)の施業案の編成も実地調査のうえ森林経営計画が樹立されたことは極めて明白である。

第四被告の右主張に対する原告の答弁

1のうち(一)、(二)の事実は否認する。同(三)のうち民有地払下に関する事実は不知。その余は否認する。同岡の地例境は否認する。

2の事実はすべて否認する。

第五証拠関係〈省略〉

理由

一  本案前の抗弁に対する判断

被告は、原告の本訴請求中別紙目録(三)記載の地域が原告の所有に属することの確認を求める部分は確認の利益を欠く旨主張するので判断するに、被告は別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林が原告の所有に属することを認め、右四筆の山林の範囲は、別紙目録(三)記載の地域である旨主張するのであるから、本件係争地のうち右地域が原告の所有に属することは被告において争つていないことが明らかである。それ故、本件訴は、別紙目録(三)記載の地域について不適法であつて却下を免れない。

次に、被告は、本件係争地のうち別紙目録(四)記載の地域は訴外浅利由蔵所有の別紙目録(二)記載の(5) の山林であるから、本訴請求中右地域が原告の所有に属することの確認を求める部分は被告たるべきものを誤つており、不適法である旨主張する。そして右主張事実は後記のように証拠により認められるから、本訴のうち別紙目録(四)記載の地域に関する部分は不適法であつて却下すべきものである。

二  本案についての判断

1  別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林が原告の所有に属すること、右四筆の山林が本件係争地内に含まれていることは当事者間に争いがなく、右四筆の山林の位置、範囲が原告の主張する地域であるか、それとも被告の主張する別紙目録(三)記誠の地域であるかについて判断するに、〈証拠省略〉次の事実を認めることができる。

別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林は、元宮林であつたが、明治六年一二月二七日太政官達第四二六号「家録鎌奉還ノ者ヘ官林荒蕪地払下規則」に基づき、家禄一一石一斗のうち五石五斗五升を奉還した士族田鎖政貴、家禄二二石二斗を奉還した士族大矢勝成の両名がその授産用地として官地払下を受け、この払下によつて民有地となつた。すなわち、右四筆の山林のうち(1) 、(二)の山林は田鎖政貴が、(3) 、(4) の山林は大矢勝成が、田鎖政貴については明治九年一一月二〇日付、大矢勝成については、同年同月一五日付で、それぞれの払下出願に対して内務郷の許可があり、右山林のほか他の数筆の山林(大矢勝成は、後記認定のように別紙目録(二)記載の(5) の山林もこの時に払下を受けた)とともに払い下げられたものである。ところで、還禄人への官地払下面積については、右太政官達第四条による制限があつて、山林については一人当たり原則として五町歩以下とされていた。岩手県においては、同条但書により内務省に伺済のうえ一〇町歩まで右制限が緩和されたが、右両名が払下を受けたそれぞれの合計払下反別も右制限内であつて、(1) の山林の払下反別は一町二畝二五歩、以下、(2) の山林は八反七畝二五歩、(3) の山林は一町二反七畝歩、(4) の山林は一町四反七畝一五歩となつている。但し、右制限反別は実測面積によるものでなく、払下に当つてなされている実測に基づく面積は、(1) の山林が三町八畝二〇歩、(2) の山林が二町六反三畝一五歩、(3) の山林が三町八反一畝七歩、(4) の山林が四町四反二畝一五歩である。明治一〇年ごろからいわゆる地租改正処分の一環として山林原野に対する土地官民有区分調査が全国的に実施されたが、本件係争地付近については明治一〇年一一月ごろ右調査が完了し、その結果に基づいて別紙目録(二)記載の各山林の地割、地番、字、反別も確定された。本件係争地付近における調査には、田鎖政貴、大矢勝成が地主として立会し、その立会による一筆調のうえ、さらに本調査をなして確定しているのであつて、右確定した民有地の地籍、面積はその後も変動がなく現在のそれと合致する。右官民有区分において西根村第三六地割と長山村第五五地割内で民有地に認定されたのは右(1) ないし(4) の山林のみであり、右地割内の右払下地以外の地域は全部官林として調査され取り扱われた。また、地割境は、第五五地割と第五四地割の境界が明連沢、第三六地割と第三五地割の境界が金堀沢とされている。なお、(1) ないし(4) の山林の官民有区分調査の結果に基づく山林原野野帳〈証拠省略〉の面積および登記簿〈証拠省略〉上の面積と前記払下実測とが異なるが、これは払下の際の実測が一間を六尺五寸としてなされているためであつて、後者の面積を一間六尺として換算すると前者の面積におおむね一致する。地租改正処分についで明治二〇年ごろには地押調査がなされたが、(1) ないし(4) の山林の地積、面積については、地租改正処分によるものをそのまま襲用しているため、右調査による変動はなかつた。明治四〇年八月には、旧国有林野法(明治三二年法律第八五号)に基づき、当時青森大林区署(現在青森営林局)の境界査定官吏大平乕之助によつて国有林の境界査定が実施された。右境界査定処分は、(1) ないし(4) の山林の当時の所有者大久保千代松の立会を得る等適法に行われ、これに対する不服申立もなかつた。それ故、国有林と右山林の境界は境界査定処分における査定線のとおり確定した。右境界査定処分により確定した(1) ないし(4) の山林の位置、範囲は別紙目録(三)記載のとおりである。本件係争地のうち右地域を除く残余の地域は、そのうち別紙目録(四)記載の地域が訴外浅利由蔵所有の別紙目録(二)記載の(5) の山林であつて、大矢勝成が(3) (4) の山林と同様の経緯で払下られ、前記境界査定によつて適法に確定されたものである。その余は国有林であつて、岩手郡雫石町大字西根字南葛根田一番南葛根田国有林(旧同町大字西根第三五地割一番の三字大石沢官林の一部、同第三六地割一番の三字金堀沢官林全部、同地割二番字金堀沢宮林全部)の一部と、同町大字長山字北葛根田一番北葛根田国有林(旧同町大字長山第五五地割一番の一字北の又沢官林の一部)の一部該に当する。被告は、境界査定によつて国有林の境界が確定して後、本件係争地内の右国有林をも含めて森林経営の基本義務である施業案を編成し、国有林の経営管理に当たつてきたが、右事業の遂行に当たつては、右国有林に孕在する別紙目録(三)、(四)記載の地域は終始民有地として取り扱われてきた。

以上のように認められ、〈省略〉右認定によれば、原告所有の別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林の現地は、別紙目録(三)記載の地域であり、したがつて、本件係争地のうち右地域のみが原告の所有に属し、その余の部分は、別紙目録(四)記載の地域が訴外浅利由蔵所有の山林、そのほかの地域は前認定の国有林であつて被告の所有に属するといわねばならない。したがつて、仮に原告がその主張のように本件係争地全部を村上三郎から買い受けたとしても、別紙目録(三)記載の地域以外の地域については、所有権を取得するに由ないものである。

ところで本件係争地の範囲について判断するに、〈省略〉本件係争地の北側、西側、南側の各境界は岩手、秋田両県の県境であると認められる。次に、本件係争地の東側境界線のうち、北ノ又沢と大石沢との合流点より南の部分は、原告主張の境界線は乙第一号証に記載されている第一六二林班の東側林班境の線と合致すると認められ、右合流点より北の部分は、原告主張の境界線は、大白森より南は〈証拠省略〉第一六九林班内を大白森から合流点まで達している峯の線及び大白森より北は第一六九林班の東側林班境の線であると認められる。〈省略〉

2  次に、原告の時効取得の主張について判断するに、取得時効の要件である自主占有ありとするためには、社会通念上物に対して所有者としての排他的な支配を及ぼしていると認められるにたる事実状態が存しなければならない。そして、右事実上の支配としての所持は、占有の目的である物の性質、種類に応じて外形的に異つた型態を予想しなければならないことはいうまでもない。そこで、まず本件係争地の状況を概観するに、〈証拠省略〉本件係争地は岩手郡雫石町の一部であつて秋田県との県境に接し、本件係争地の部分が秋田県側に突き出ていて右県境が袋状をなし、地図の上でその地点を容易に指摘することが出来る程の実例約四四〇〇町歩の広大な地域であつて、その周囲は、乳頭山、小白森、大白森、曲崎山、八瀬森、関東森等一一〇〇メートルから一五〇〇メートルの山が峯を連ね、内部は数多い沢と樹齢数百年のブナの森林、そのうえ三メートルを越える笹やぶが密生し、熊やまむしが多数棲息する原生林地帯であつて、本件係争地の東側にあつて被告側が孕在地測量の基点とした北ノ又沢と大石沢の合流点に達するには、盛岡市から車で所要時間一時間三〇分で人里離れた滝の上温泉に至り、そこからさらに、葛根田川の上流を約六粁ばかり危険な沢登りをしなければならず、秋川県側から係争地に至るにも、国鉄田沢湖駅から蟹場温泉までバスで約一時間、そこからさらに一時間山道を登らなければならない。昭和三一年に本件係争地およびその付近の県境約四〇〇メートル幅が帯状に自然公園法の適用を受け、十和田八幡平国立公国の一部に編入されて県境が開発され、登山道が整備されて登山者が訪れるようになつたが、それまでは、蟹場から乳頭山に至る山道を除いては、刈払しながら進まなければならなかつた訪れる人とてない秘境であつた。以上のように認められる。

そして原告は、昭和一〇年六月二四日以降、本件係争地を所有の意思をもつて占有してきた旨主張するものである。〈証拠省略〉原告は、昭和九年一一月八日訴外対上三郎から別紙目録(二)記載の(1) ないし(4) の山林を買い受け(登記簿上原告名義に所有権移転登記がなされたのが昭和二三年二月一八日であることは当事者間に争いがない)、翌年の六月四日から同月二四日まで、売主側柿木富太郎、買主側武井忠一をそれぞれ代理人として双方立会のもとに、原告において右四筆の山林とこれに隣接する山林との境界であると主張している本件係争地の周囲(ただし周囲の一部のみと認められる)を実地踏査し、本件係争地を右四筆の山林として引渡を受けたが、武井忠一は、右実地踏査の際、その踏査した線上に(その線が本件係争地の境界と一致するとの証拠はない)原告の所有を示す〈オ〉印を記した木の杭を所々に打ちこんだことが認められる。〈省略〉ところで、境界標識の設置が自主占有の一徴表として重要な認定資料となり得ることはいうまでもないけれども、広大な係争地域の境界線(仮に境界線を踏査しそこに杭を打つたとして)の一部に、しかも所々に右のような杭を打つたところで、排他的な事実上の支配が成立したとはいえないこと明日である。次に、〈証拠省略〉原告は、前認定の引渡以降昭和二四年ごろまで武井忠一に本件係争地の管理を依頼し、原告から武井忠一に対し右管理費用を支払い、武作忠一は、昭和一〇年以降昭和三四年ごろまで管理人として本作係争地(その一部分にすぎないと認められる)を年一回程度見廻つていたこと、昭和三一年以降は後藤定二が本件係争地の管理を依頼され同人は昭和三六年ごろまで数回本件係争地(その一部分にすぎないと認められる)を見廻つたこと、昭和三六年ごろから昭和四〇年ごろにかけて「火の用心、山林所有者岡部岩雄」と記したブリキ製ブレートを本件係争地の主に南側県境沿いの一〇数ヶ所に提示したこと、昭和四〇年九月に至つて、秋田県側(蟹場温泉)登山口から本件係争地(県境)へ到達する地点の北側(係争地内)にトタン茸の小屋(原告はこれを管理小屋という)を建てたこと、以上の事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はない。しかし、他方被告においては前認定のように、境界査定処分以降現在に至るまで本件係争池内国有林を含めて施業案を編成し、国有林野の経営管理を遂行してきたものであり、また、〈証拠省略〉原告が本件係争地の引渡を受けた昭和一〇年六月二四日以降に、雫石営林署森林主事小野新蔵が同年八月二三日本係争地内国有林一六二林班(前掲乙第一号証によると本件係争地の国有林は一六二林班から一六九林班までが含まれているものと認められる)において広葉樹天然更新の状況調査のため、昭和一二年六月および一〇月に雫石営林署か本件係争地内国有林のうち一六四林班ないし一六六林班において鉱業権設定出願に対する実地調査のため、昭和十四年五月二九日から同年一〇月一〇日まで青森営林局技手森雄二外一名(人夫は別)が基準線測量のため、昭和二八年一月および四月に雫石営林署が本件係争地国有林のうち一六二林班、一六三林班、一六五林班において鉱業権設定出願に対する実地調査1のため、昭和二八年八月五日、六日の両日、雫石営林署が本件係争地の国有林内に孕在する民有地との境界標巡検のため、昭和三六年一〇月一〇日から一〇月三一日まで境界査定簿に基づく境界検側のため、それぞれ本件係争地を踏査しており、また、明治年代から国有林巡視のため、季節的に民間人に委嘱してこれに当らせてきたが、本件係争地を含む南、北葛根田国有林については、大正一五年以降村上先次郎がその任に当り、本作係争地付近(本件性係争地は前認定のとおり、昭和三一年ごろまでは人の訪れることの少くない秘境であつたため、これまでは殊更巡視する必要のある地域ではなかつた)を毎年巡視していた。昭和三一年ごろからは県境に登山道が出来たため春秋にわたつて絶えず本件係争地の県境沿いを巡視してきた。以上の事実が認められ、右認定を覆すにたりる証拠はなく、右認定の事実と、前認定の本件係争地の地理的状況を併せ考えれば、前認定の原告側の事実をもつて約四四〇〇町歩に及ぶ広大な土地の占有ありということは到底できず、むしろ右原告側の事実は、広大な本件係争地の一部に時々人間が出没したという方がふさわしいものである。なお、証人武井忠一は、本件係争地の東側にある前記北の又沢と大石沢との合流点に管理小屋を建てキノコ等を栽培して四、五年生活した旨の証言をし、証人柿木富太郎は、本作係争地内の立木を伐採搬出したような証言をするけれども、前認定の本件係争地の地理的状況および証人村上先次郎の証言に照らして到底信用することができない(仮に、右事実が認められたとしても前記判断を覆すにたりない)、また、昭和三〇年以前にも、「火の用心」のプレートを掲示していた旨の証言がないではないが、昭和三〇年以前には、右のようなプレートの掲示を必度とするような地域ではなかつたこと、それに証人村上先次郎の証言を併せ考えると右証言もたやすく信用できない。ほかに、原告の自主占有を認めるにたりる資料は存しない。

してみると、取得時効のその余の要件について判断するまでもなく原告の取得時効の主張は失当であり採用することができない。

三、以上説示のとおりであるから、原告の本訴請求のうち別紙目録(三)及び(四)記載の地域の所有権確認を求める部分は不適法として訴を却下することとし、その余の部分は理由がないので失当として棄却することとし、訴訟費用については民事訴訟法第八九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 石川良雄 田辺康次 佐々木寅男)

別紙目録(一)〈省略〉

別紙目録(二)

(1)  岩手郡雫石町長山五五地割一番の二字北の又沢

一、山林 三町六反二畝歩

(2)  同所同地割一番の三字中の又沢

一、山林 三町九畝歩

(3)  同郡同町大字西根三六地割一番の二字南の又沢

一、山林 四町四反七畝六歩

(4)  同所同地割一番の一字金堀沢

一、山林 五町一反九畝七歩

(5)  同所第三五地割一番の一字大石沢

一、山林 五町六畝二五歩

別紙目録(三)〈省略〉

別紙目録(四)〈省略〉

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